2016.12.12(Mon):歴史再考
時は流れても歴史を再考するのは実に楽しい。

たら、れば論もまぁ楽しいのだが(笑)

稀代の英雄と賞するべきか悩むところではあるが、「織田信長」の失敗を考えてみる。

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信長にはなにが足りなかったのか?
人徳ではないだろうか。
「仁・義・礼・知・信」と言われるものだ。

考えてみよう。
上杉謙信も武田信玄も病に倒れ、あるいは衰えた名将が討たれることは珍しくなかった時代に、信長が討たれたのは圧倒的な力を誇る上り坂だったときでもあった。
明智光秀の謀反が原因だが、異常事態には違いない。

信長は顔色の冴えない家臣に対して、「おまえ、だいじょぶか」という気遣いだとか、人間として当たり前の思いやり、そういうものが一切なかった。
「病気ならば、あとは我々に任せてきちんと治せ。それから一緒に頑張ろう」などと言われれば、「この人のために頑張ろう」と思うことも考えられるだろうに。
だが史実を見る限り、信長は正反対のことをやった。
情け無用の恐怖政治だ。
現代風な表現にするなら極端な成果主義を採用したということだろう。
それは初めのうちはうまくいくもので、家臣はやればやるほど認められる。
待遇もどんどん良くなるし、どんな家臣も自分が一番だということを証明したくて理不尽なことをしてでもやり遂げようとするだろう。
しかも早く功績をあげたいからスピードを重視するのでそういった組織は急成長をしていく。

反面、味方さえ出し抜かなくては結果を出せないから、人間関係はぎすぎすするだろう。
動いているのは感情のある人間です。
味方同士なのに心から信頼し合うことが出来ない、そういった歪みが必ず現れやがては全体の士気が下がり、組織は疲弊して衰える。
この時代、大将はもちろん戦に強くなくてはいけないが、それだけでは立派な大将とは言えない。
儒教の「五常の徳」、すなわち「仁・義・礼・智・信」を大切にしてこその大将だとは言えなかったか。

信長の手法は、とにかく結果を出せばいい、早ければ早いほどいい、というものだった。
結果を出せなければ理由の如何にかかわらず、すぐに追放する。
進言などには一切耳を貸さないうえに、それどころか言葉を返すだけで飛ばされ(左遷)てしまう。
家臣は恐れをなして、ひたすら平伏するしかなかったのだろう。
有益な提案があったとしても口を閉ざしてしまう空気では組織は潰れます。

これが一番の問題点だと推測するわけだが、信長は敵の城を滅ぼしたとき、女子供、老人まで惨殺しています。
遺恨を残さないもっともな方法だったと言っても差し支えはないでしょう。

本能寺の変は、ほかの武将が学習するいい機会になったのかもしれません。
信長の後継者にまんまと収まった秀吉も学習をしたのではないかと思いますね。
秀吉は信長の政策をほとんど継承しました。
政策自体は成功を収めていたのだから、それで良かったわけで、ただひとつ殺戮主義と恐怖政治だけは受け継がなかった。
信長のやり方では天下は取れないと秀吉は悟ったのではないだろうか。
そして上杉、毛利には戦ではなく協力路線を敷き強力な連立政権を構築したともいえるのではないでしょぷか。

戦において、織田信長は数々の失敗がありましたが、その失敗を見事にリカバリーしたことも最後に付け加えておきましょう。
信長は失敗は全て逆転しています。
これが信長の成功の元でしょう。
失敗から学んだことで、彼は強くなったと思います。
失敗に気が付いたら、痛手が大きくならないうちに引き、次の準備を行う姿勢が大切だという事を信長は歴史の中で教えてくれているのです。
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