2017.01.09(Mon):歴史再考
こんばんは。

大韓民国(韓国)の狼狽ぶりが腹筋を破壊する(笑)
今度は、日本が拠出した10億円を返して、日韓合意を破棄しようという話がでてる。
10億円を日本に返そうが、返さないままでも現状は変わらないことが解っていない。
韓国人の知能指数がいかほどのものか想像ができる。

在韓日本大使も無事に帰国できたことだし、我々は今後の動向を注視しているだけでいい。

日本国内の数十万の在日も一掃したいね。
在日が増えた理由を纏めてみた。

済州島四・三事件(さいしゅうとうよんさんじけん)は、1948年4月3日に現在の大韓民国南部、済州島で起こった人民遊撃隊の武装蜂起にともなうとされる虐殺事件。

済州島惨殺事件


南朝鮮労働党が関わっているとされ、政府軍・警察による粛清と鎮圧によって、多くの島民が虐殺された。

・概要
1945年9月2日に日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソビエト連邦軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。
この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザン金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。

1948年に入ると、金日成は2月に朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主人民共和国の成立を通告した。
当初から武力による強制統一を考えていた金は、南部のパルチザンに蜂起するよう呼びかけていた。対して南部は、南朝鮮労働党を抜きにして単独選挙を行うことを決断した。
これは、国土の分断を決定するものであり、選挙反対派が運動を開始したが、済州島では南朝鮮労働党に率いられた島民が「人民遊撃隊」を組織し、4月3日に武装蜂起した。

蜂起は軍や警察、および北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)などの、治安部隊によって短期間で撃滅された。
残る人民遊撃隊は、ゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は遊撃隊員の処刑と、同調島民の粛清を行った
これは、8月13日の大韓民国成立後も韓国軍によって継続して行われた。
1950年に南北朝鮮労働党が合併し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が侵攻(朝鮮戦争)すると、いよいよ朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。

済州島の古来よりの複雑な歴史背景によって、朝鮮本土からの迫害や差別を受けていた島民は、新天地を求めて日本本土へ移住あるいは出稼ぎに行き、併合初期に来た最初の20万人ほどの朝鮮出身者の大半は、済州島出身であった。
敗戦による独立によって、そのほとんどが帰国したが、この事件で済州島民は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。

事件前に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減した。

朝鮮労働党が絡むとされる上に、犠牲者が余りにも多く、「反共」を国是に掲げた軍事独裁国家であった韓国では、責任の追及が公的になされておらず、また事件を語ることはタブー視されてきたため、未だに詳細は解っていない。
21世紀になって、韓国大統領となった盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪、2006年同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに、事件の真相解明を宣言した。

済州島の人口は1948年頃は約30万人(韓国総人口の1.2%、南北朝鮮合計の約0.8%)、現在では約55万人(韓国総人口の1,2%、南北朝鮮合計の約0.8%)である。この数字と比較して、在日韓国朝鮮人に占める済州島に本籍を持つ者の16.6%という割合は異常に高い。現在人口約1000万人(韓国総人口の約21%、南北朝鮮合計の約14%)の慶尚道(慶尚北道+慶尚南道+釜山)に本籍をおく者の54%という割合と比較しても、在日輩出率は約6倍の高率である。この異常な数値は、韓国本土と異なる海洋地域としての済州島の特徴を示していると思われる。

古来、済州島は漁業や海上交易(倭寇を含む)で生活する住民が多く、五島列島や平戸、奄美・沖縄などの九州西南島嶼地域と類似した社会構造であったと思われる。
これらの地域の出身者は、漁労で鍛えた高い忍耐力のおかげで工場労働者として適性が高いと評価され、明治維新から高度成長時代までの期間、関西地区の工場地帯に多数の労働者を送り出してきた。
漁労民族的な行動圏の広さも移住を推進したと思われる。

酒鬼薔薇聖斗と名乗る神戸の児童殺害事件の犯人の父親も、鹿児島県の離島出身の労働者である。
済州島出身の在日韓国朝鮮人は大阪府を中心とする関西地区に非常に多いとされるが、九州西南島嶼地域と同様の経緯があったとも考えられる。
沖縄県出身者の多い大阪市大正区、済州島出身者の多い大阪市生野区等は低湿地で比較的家賃が安かったと想像され、経済的に苦しい彼らが集中的に居住して相互扶助を行ったのであろう。

台湾では国民党政府軍による台湾人大虐殺である「二・二八事件」が台湾人の李登輝総統の登場により初めて公式の場で議論される様になったが、済州島でも同時期に韓国軍や北朝鮮から脱出した右翼青年団などによる住民大虐殺である「済州島4・3事件」が発生している。
この事件の死者数は3万人、8万人、10万人など諸説あるようだ。
また、この事件の時期に虐殺を逃れるため日本に密航したであろう韓国人の数についても正確な統計は存在しない。
ただ、韓国本土と比較して、済州島では親北朝鮮勢力の殲滅を建前とする住民虐殺がより酷かったと想像され、日本への密航可能な漁船も多数存在することから、かなりの数の密航者が出たと想像される。
死者3万人とすれば人口の1割が、死者8-10万人とすれば人口の約3割が死亡したことになる。
朝鮮戦争での韓国の死者は100万人程度(人口の約4%)とされており、北朝鮮軍の占領を受けなかった済州島の方が死亡率が高くなっている。

密航者に済州島人が占める割合は、昭和45年から49年の不法侵入国者水際検挙では、82.2%であったという興味深い統計は、在日韓国・朝鮮人の多くが実は済州島出身である可能性を疑わせるものである。

民団の統計によれば在日韓国・朝鮮人のうちで済州島に本籍を持つ者は16.6%であるが、この二つの数字はあまりに違いが大きすぎる。
果たして密航者が民団に真の本籍地を届け出ているのかどうか、膨大な数の済州島民を虐殺した韓国政府の影響下にある民団に済州島本籍と届け出ることに危険性はなかったのか、真相の究明が待たれる。
また、朝鮮半島南部出身者が殆どである在日の中で北朝鮮系の朝鮮総連が異常に強い勢力を誇っていたことは、韓国政府の弾圧から逃れた済州島出身者がその多くを占めている可能性を想像させる。

第二次大戦末期の沖縄戦で日本軍が住民に集団自決を命じたとの嘘が捏造されたのは遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにしたことが原因であるという。
同様に、在日韓国・朝鮮人が日本政府による強制連行の被害者であるという嘘が捏造されたのは、在日の多くが自分達が密航者であることを隠したいからではないか。

「従軍慰安婦強制連行のために済州島で人間狩りを行った」という嘘を1983年に上梓した著書「私の戦争犯罪」で証言した吉田清治氏が、人間狩り捏造の対象地域として済州島を選んだことも注目される。

韓国人の多くにとって地縁のない離島であり、四・三事件で集落の住民が全員虐殺される事件も起きているために嘘がばれにくいのが一つの理由だろう。
「済州島での慰安婦狩り」というアイデアは、四・三事件での韓国軍による済州島でのゲリラ狩りから発想したものなのかもしれない。
更に、四・三事件が公になることを恐れる韓国政府当局者が、「済州島での慰安婦狩り」という嘘に飛びついて大々的に宣伝することは十分予想できただろう。

また、「民族関係の結合関係の可能性―戦後来日した在日韓国人女性の生活史」からは、済州島出身の在日の多くが済州島東部・北東部の出身であることが想像される。

シカゴ大学歴史学部のブルース・カミングス教授によれば、米国の機密情報によると四・三事件の死者は3~6万人で、日本への脱出者は4万人以上とのことだ。より最近の研究では死者は8万人以上と推定されている。
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2016.12.21(Wed):歴史再考
おはようございます。

今朝は霧がすごかった。
5メートル先が見えないほどの霧に包まれていたんですよ><

霧といえばいづれは晴れるものだが、我が国と韓国に間に漂う斬りはますます濃くなっていってるようにも感じる。

もしいままで日本に関して積み上げられてきたウソを1カ所に集めて燃やしたら、真っ黒な煙が太陽を覆ってしまうにちがいない。
なんと的を得た言葉だろうか。これは、マイケル・ヨン (ジャーナリスト)さんが書いていた言葉だ。

アジアの「慰安婦」を徹底追跡しているチームの方だ。
過去数年にわたり、われわれは日本、米国、フィリピン、タイ、ミャンマー、オーストラリア、インドネシア、直近でマレーシアを含む数々の国で「慰安婦」問題の調査を続けてきた。

上記の8カ国に加え、私は10年以上をアジアで過ごし、21カ国を訪問してきた。
われわれのサンプリングと調査は決して小規模なものではないが、完全だというつもりもない。

現在の調査の目標は単純明快である。

 1、第2次世界大戦時日本の慰安婦問題の真実を追求する。

 2、現在の対日感情を正確に把握する。

プロパガンダの専門家たちは全世界に対し、アジアのすべての国が、20万人に及ぶ「性奴隷」を誘拐したという理由で日本へ憎悪と怨恨を抱いている、と信じさせようとしている。

われわれは、日本がいかなるかたちにおいてもその手の大規模な誘拐連行に関与していないことを知っている。
真っ当な研究者とジャーナリストのあいだでは本件は完了している。

この真実探求の途上において、さまざまな突発事故がおこっていた。
高名な米国人作家のローラ・ヒレンブランドが著書『アンブロークン』において読者を騙した、ということだ。

米国人作家のローラ・ヒレンブランド
米国人作家のローラ・ヒレンブランド

日本人がテニアン島において「皆殺し」の命令を出して5000人の韓国人を虐殺した、と記述していること・
出典のうちの一つは韓国人によって噂に基づいて建てられた記念碑によるものだ。
ヒレンブランドの引用元の一つは次のものだ。“Murder on Tinian:Eric Lash,Historic Island of Tinian,Environmental Services,October 2008,vol.1,2nd edition.”(テニアンの大虐殺:エリック・ラッシュ、テニアン島の歴史、Environmental Services、2008年10月、第1巻、第2版)

ヒレンブランドの引用元になっている「出典」文書は欺瞞そのものである。ほんの数分調べればわかることだ。
当時のニュース報道を残す米軍の記録にも当たった。
米軍の侵攻後、『ニューヨーク・タイムズ』はテニアン島にまだ2400人の韓国人が残っている、と報じていた。

テニアン島は米軍の日本攻撃における死活的重要拠点だった。この小島は米軍でいっぱいとなり、滑走路が6本つくられ、テニアン島は戦時中最大の航空作戦拠点となった。
1945年の時点で、テニアンは世界最大の空港だったのだ。

虐殺など、どこからも、誰からも聞いたことがない。
われわれの海兵隊、陸軍、海軍が韓国人5000人の虐殺被害の証拠を見逃したとでもいうのか? 合衆国軍の綿密な記録文書化の傾向からして、それは考えられない。

ヒレンブランドは「皆殺しの命令により、日本軍はテニアンにて5000人の韓国人捕虜を虐殺した……」と記述した。
当時の韓国人は日本国民だった。万単位の韓国人が日本軍に従軍していたのである。少なからず士官もいたのだ。

ヒレンブランドはこの主張を2度も繰り返している。
「……日本人は皆殺しの方針を導入していた。そして5000人の韓国人全員を虐殺した」。と。
日本人・韓国人の民間人への降伏勧告を担当した米国の言語専門家による1次情報に当たった。
そこにも日本人が韓国人を殺したという証言はいっさいなかった。皆無である。


米国は、テニアンを対日空爆の出発地として活用した。
何十もの日本の都市を焼き払ったのである。
なぜにわれわれ(米国)が敵側による5000人の無辜の民の殺戮を隠す必然性がない。

これほど大規模な殺戮を、現地取材もせず、米軍の公記録にも当たらずに告発するというのは、プロとしてあるまじき不正行為である。
彼女(高名な米国人作家のローラ・ヒレンブランド)はこの書籍のために7年にわたる調査を続けていたと言い張っていたが、じつは彼女は同書のテーマである人物ルイス・ザンペリーニ氏と1度も対面したことがない、ということが書籍刊行後に暴露された。

2015年9月に、私はヒレンブランドの出版社に連絡し、テニアンの韓国人5000人虐殺に関する説明を求めた。
出版社はコメントを拒否し、同書の刊行はかなりの昔であるため、ヒレンブランドももはやインタビューに応じることはできない、と返答してきた。

私は編集者にもインタビュー申請を出した。同じ返答だった。

ヒレンブランドの著書を原作としてアンジェリーナ・ジョリー監督による映画化されたのは記憶に新しい。
プロパガンダは、世界中、もはや日本人さえも信じ込むほど行き届いているのが現状だ。

韓国人と中国人による反日物語

反日物語によると、貞節な地元の女の子たちが悪辣な日本軍の侵入によって連行され、海外の「強姦所」で無理やり働かされたという。
これは韓国人と中国人にとっては決して突飛な空想ではない。
今こに瞬間にも韓国人と中国人は性労働者の人身売買関与を継続しているではないか。
今年、大規模な売春婦密輸入網がカナダで捕縛された。
予想どおりというべきか、逮捕された容疑者は韓国人と中国人であった。売春婦人身売買は韓国と中国の伝統事業である。

私(マイケル・ヨン (ジャーナリスト)は現地でさまざまな背景をもつ人たちに日本人、韓国人、中国人、その他についてどう思うのか聞いてみた。
聞いた相手にはインド系もいれば、中国系、マレー系、バングラデシュ系の人もいた。

嫌いな民族一覧:韓国人、中華人民共和国の中国人(台湾ほかを除く)、インド人、アラブ人
好きな人たち:日本人、欧州人、アメリカ人。
私は多くの国々で多くの人たちに聞いてきたがほとんどこの内容と変わりがない。

アジア全体で日本人は憎まれているという話は虚構である。
日本はアジアのなかで最も大きな敬意を集める国の1つである。


ペナン戦争博物館

ペナン戦争博物館

「記念館」とは甘い用語である。この場所は、紛れもなく反日感情を醸成する神殿である。
ここには、リトルボーイにもファットマンにも似ていない実物大の原爆がある。

原爆の模型

カミカゼパイロットの自殺用ベストも揃っている。

この「自殺用ベスト」の上に掲げられている説明文によると、カミカゼは1941年12月10日にプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを破壊したという。
真実は、英国艦隊は日本軍の通常の空襲によって破壊されたのであり、カミカゼによるものではない。
理由は簡単だ、カミカゼ「特別攻撃隊」は、戦争が終局に近づく1944年まで決行されることはなかったからである。
この博物館は同じくらいの力を注いで、日本軍が性奴隷を連行したという虚構の主張を繰り出している。

マレーシア全体、そのなかでもペナンは現在進行形の人身売買で悪名高いが、彼らが非難するのは日本ばかりだ。
中国は、この情報戦を今後の対日本の熱い戦争の前哨戦として利用している。
日本は積極的に、中国がばらまく憎悪に対処すべく真実を広めるキャンペーンに投資するべきで、躊躇している時間的余裕はない。。



2016.12.13(Tue):歴史再考
こんばんは。
一枚また一枚と嘘の皮が剥がされていく。

近代史を不完全燃焼で終えた分、中韓両国は今になって対日嫉妬の炎をたぎらせている。
歴史を正視すると、自信や誇りが傷付くので、歴史の捏造・粉飾で傷口を癒やすしかないからだろう。

安倍晋三首相の米ハワイ・真珠湾訪問は、大東亜戦争で激烈な戦いを繰り広げた主敵が米国だった不動の史実をクッキリと浮かび上がらせる事になる。
半面、日本を打ち破り、独立を果たしたと、「抗日戦勝利」なる夢に取り憑かれた韓国と中国の「戦勝国なりすまし」を際立たせる事にもなる。

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朝鮮民族は、大東亜戦争(1941~45年)以降、今に至るまで「連合国」を気取ってきたが、近代に入り日本と朝鮮は本格的に戈を交えていないのは史実からもわかっている。
戦前~戦中~戦後と、まともな対日ゲリラ抗戦も民族蜂起も起きていない。
むしろ、1910年に併合された朝鮮は枢軸国・大日本帝国として戦ったのだ。
真実の歴史の中では国際法上も実態上も連合国詐称は無理というものだ。

北京で2015年に開かれた「抗日戦争勝利記念」行事に出席したが、韓国の「連合国願望」史は筋金入りだ。
初代大統領・李承晩は長崎県・対馬の「返還」要求と抱き合わせで、領土も画定する「サンフランシスコ講和条約署名国の資格がある」と1949年、米国に訴えた訳だが韓国は日本と戦っていないと英国が異を唱え、朝鮮戦争(1950~53年休戦)を共に戦っていた米国も英国にならう。米国は《連合国共同宣言》への署名(42年)がないとも指摘した。
また、交渉過程で韓国は、日本の講和条約締結を終始妨害し、島根県・竹島の編入すら主張した。結局、韓国が得たのは在朝鮮半島の日本資産のみ。講和会議へのオブザーバー参加も拒絶された。

日本だった朝鮮の人々は、欧州列強の植民地兵のごとく人間の盾にされもせず、日本軍将兵として戦った。
朝鮮人の軍人・軍属は24万2千人以上で、朝鮮人高級軍人の目覚ましい武勇に触発され、志願兵の競争率は62倍強に沸騰した。
2万1000柱の英霊が靖国神社に祭られる事実を朝鮮人は知るべきだろう(歴史を学ぶべき)。

日本の敗戦により棚ぼた式でもらった独立

国際社会に連合国資格を一蹴されても、韓国は歴史の捏造・粉飾に明け暮れた。
韓国の教科書にも載るが、韓国光復軍は、中華民国=国民党政権の臨時首都・重慶に在った朝鮮独立を目指す亡命政府もどき「韓国臨時政府」の武装組織で、1940年の創設。
しかし、動員計画は遅れ、創設1年目の兵力は300人だった。
この「臨時政府」自体、能力的欠陥が目立ち過ぎ連合・枢軸国双方が承認を拒んだ事実も知っておかないといけない。

戦後も米国は、朝鮮を国家でなく日本だったと公認。
日本の統治権を取り上げ直接軍政を敷き、光復軍も武装解除したのだ。
韓国は「日帝を打ち負かして独立を勝ち取った」のではない。
終戦3年後、半島で統一国家建設をたくらむソ連に対抗した対日戦勝国・米国が長期信託統治を断念したからにほかならない。

大韓帝国→大日本帝国→米国軍政→韓国との正史ではなく大韓帝国→日本の植民地→臨時政府→韓国との虚構と妄想で現在に至っている。
日韓併合は国際法上合法なのに、朝鮮も大韓帝国も世界地図から消えた哀史を正視できないでいる。
この妄想からでは、李承晩が大東亜戦争後の1948年に行った独立宣言の正統性まで問われることになるのだが、理解ができないようだ。


中国もしかりだ。
地球上に中華人民共和国なる厄介な国が現れるのは降伏調印後、中国大陸を舞台に国民党と共産党の内戦が始まり、共産党が勝って国民党を台湾に潰走させた前後だ。
降伏調印後4年以上もたっていた訳だ。

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1937年に勃発した支那事変が大東亜戦争へと拡大する中、精強な帝国陸海軍と戦ったのは専ら国民党軍で共産党軍ではない。
支那事変~大東亜戦争中、共産党系軍は一部が遊撃(ゲリラ)戦に臨んだが、帝国陸海軍と国民党軍の戦闘を可能な限り傍観し、戦力温存に専心した。

初代国家主席・毛沢東は「力の7割は共産党支配地域拡大、2割は妥協、1割が抗日戦」と指導。
帝国陸軍が中華民国の首都・南京を陥落(1937年)させると、祝杯の大酒を仰いでいるのだ。
「避戦」は、毛が練り上げた《持久戦論》の重要要素で、共産党系軍が最後まで日本に勝てなかった動かぬ証拠を歴史に刻んでしまうから公にはできない。

しかるに、安倍晋三総理が真珠湾訪問で、中国、大韓民国(韓国)の歴史上の嘘がまたひとつ暴かれていくのである。
中国、韓国が嘘に嘘を積み重ねてきた結果、矛盾が拡大している事に世界中の人々が気づきだしたのでないだろうか。。


2016.12.12(Mon):歴史再考
時は流れても歴史を再考するのは実に楽しい。

たら、れば論もまぁ楽しいのだが(笑)

稀代の英雄と賞するべきか悩むところではあるが、「織田信長」の失敗を考えてみる。

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信長にはなにが足りなかったのか?
人徳ではないだろうか。
「仁・義・礼・知・信」と言われるものだ。

考えてみよう。
上杉謙信も武田信玄も病に倒れ、あるいは衰えた名将が討たれることは珍しくなかった時代に、信長が討たれたのは圧倒的な力を誇る上り坂だったときでもあった。
明智光秀の謀反が原因だが、異常事態には違いない。

信長は顔色の冴えない家臣に対して、「おまえ、だいじょぶか」という気遣いだとか、人間として当たり前の思いやり、そういうものが一切なかった。
「病気ならば、あとは我々に任せてきちんと治せ。それから一緒に頑張ろう」などと言われれば、「この人のために頑張ろう」と思うことも考えられるだろうに。
だが史実を見る限り、信長は正反対のことをやった。
情け無用の恐怖政治だ。
現代風な表現にするなら極端な成果主義を採用したということだろう。
それは初めのうちはうまくいくもので、家臣はやればやるほど認められる。
待遇もどんどん良くなるし、どんな家臣も自分が一番だということを証明したくて理不尽なことをしてでもやり遂げようとするだろう。
しかも早く功績をあげたいからスピードを重視するのでそういった組織は急成長をしていく。

反面、味方さえ出し抜かなくては結果を出せないから、人間関係はぎすぎすするだろう。
動いているのは感情のある人間です。
味方同士なのに心から信頼し合うことが出来ない、そういった歪みが必ず現れやがては全体の士気が下がり、組織は疲弊して衰える。
この時代、大将はもちろん戦に強くなくてはいけないが、それだけでは立派な大将とは言えない。
儒教の「五常の徳」、すなわち「仁・義・礼・智・信」を大切にしてこその大将だとは言えなかったか。

信長の手法は、とにかく結果を出せばいい、早ければ早いほどいい、というものだった。
結果を出せなければ理由の如何にかかわらず、すぐに追放する。
進言などには一切耳を貸さないうえに、それどころか言葉を返すだけで飛ばされ(左遷)てしまう。
家臣は恐れをなして、ひたすら平伏するしかなかったのだろう。
有益な提案があったとしても口を閉ざしてしまう空気では組織は潰れます。

これが一番の問題点だと推測するわけだが、信長は敵の城を滅ぼしたとき、女子供、老人まで惨殺しています。
遺恨を残さないもっともな方法だったと言っても差し支えはないでしょう。

本能寺の変は、ほかの武将が学習するいい機会になったのかもしれません。
信長の後継者にまんまと収まった秀吉も学習をしたのではないかと思いますね。
秀吉は信長の政策をほとんど継承しました。
政策自体は成功を収めていたのだから、それで良かったわけで、ただひとつ殺戮主義と恐怖政治だけは受け継がなかった。
信長のやり方では天下は取れないと秀吉は悟ったのではないだろうか。
そして上杉、毛利には戦ではなく協力路線を敷き強力な連立政権を構築したともいえるのではないでしょぷか。

戦において、織田信長は数々の失敗がありましたが、その失敗を見事にリカバリーしたことも最後に付け加えておきましょう。
信長は失敗は全て逆転しています。
これが信長の成功の元でしょう。
失敗から学んだことで、彼は強くなったと思います。
失敗に気が付いたら、痛手が大きくならないうちに引き、次の準備を行う姿勢が大切だという事を信長は歴史の中で教えてくれているのです。

2016.12.05(Mon):歴史再考
こんばんは。

産経ニュースにも出ていたが、北方領土の話だ。
今月15日に山口県長門市において「日露首脳会談」が予定されている。
そんな折、ロシアがソ連時代から北方領土領有を主張する最有力根拠としてきた「ヤルタ密約」(ヤルタ協定のうち極東密約)の有効性について、ルーズベルト米大統領が権限を越えて署名し米議会で批准されていないことを引き合いに、英政府が大戦終了後の1946年2月に疑念を示していたことが英国立公文書館所蔵の英外交電報で明らかになった。

英外務省、露の北方領土領有の根拠「ヤルタ密約」に疑念 「ルーズベルト米大統領が越権署名」 外交公電で全在外公館に警告
電報の冒頭には「ソ連のスターリン首相、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相が45年2月11日にクリミア会議(ヤルタ会談)でソ連の対日参戦条件について極秘に合意した密約内容の文書が含まれる」と記され、米英ソ3政府が合意から1年後にあたる46年2月11日に、それぞれの議会で合意文書を発表するとしていた。

ニュースではザックリと書かれているだけなので、少し深く切り込んでみたい。

極東密約(ヤルタ協定)
この協定は昭和20年(1945)2月、アメリカ合衆国、イギリス、ソ連が、ソ連にある保養地ヤルタに集まって取り決めた秘密協定のことを指す。

1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促したことに始まる。
ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持すること
樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること
千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経てソ連が対日参戦すること
などが取り決められた。

ヤルタ密約は、当事国が関与しない領土の移転は無効という国際法の条文に明白に違反している。
故に、ソ連・ロシアによる南樺太及び千島列島を侵略・占領する法的根拠がまったくないのだが、日本政府がまともに抗議せず、また、アメリカに反省がないため、南樺太、千島列島は現在に至るまでソ連に占領されたままである。
これがいわゆる「北方領土問題」だ。


ヤルタ密約


ヤルタ協定は、第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年2月4日から11日までの8日間、ソ連・クリミア半島のヤルタ市(現ウクライナ領)の南方にあるリヴァディア宮殿を会議場に、アメリカ・イギリス・ソ連の3首脳が会談した際に、日本に関して結ばれた秘密協定の内容です。
ロシアはこの密約を根拠に、北方領土の実効支配を正当化していますが、この協定はあくまで密約であり、 「当事国が関与しない領土の移転は無効である」という国際法の条文に明白に違反しています。

第二次大戦末期、ソ連の対日参戦を決めたヤルタ会談で、チャーチル英首相の通訳を務めたヒュー・ルンギ氏(89)が本紙のインタビューに応じ「千島列島は日本の領土で、ソ連への引き渡しを決めたヤルタ協定は国際法上間違いだった」と語った。
会談では、体調がすぐれないルーズベルト米大統領に対し、ソ連最高指導者スターリンはメモなしで堂々と議論を進めたという。


チャーチル英首相の通訳「千島列島引き渡しは国際法上誤り」

オックスフォード大卒のルンギ氏は大戦中、モスクワで英軍のロシア語通訳として勤務。
米英ソ首脳による1943年のテヘラン、45年のヤルタ、ポツダムの3会談、44年10月の英ソ首脳会談で通訳を務めた。

ヤルタ会談についてルンギ氏は「ソ連は対ドイツ戦の勝利をほぼ手中に収めていた。
スターリンはご満悦の様子で、彼を取り巻く空気は快活そのものだった」と振り返る。
そして「極東問題はルーズベルトとスターリンの2人で話し合われ、チャーチルは署名に応じただけだった。
それが公に知られるようになったのは戦後何年もたってからだ」と語る。

ルンギ氏がヤルタ協定の存在を知ったのも戦後のことだが、「スターリンはルーズベルトに『千島列島は日本が第二次大戦で占領した領土の一部だ』とデタラメの説明をした。
ルーズベルトは、千島列島が日本の領土になった歴史的経緯を正確に示した米国務省の資料に、目を通していなかった」と説明。「千島列島は1875年の樺太千島交換条約でロシアから譲渡された日本の領土で、引き渡しは国際法上の誤りだ」と断言した。

北方領土とヤルタ会談


チャーチルのすぐ後ろで3首脳のやり取りを観察した氏は、スターリンについて「彼はすべての事実と、自分が何を求め、何を成し遂げたいのかを知っていた。
非常に簡潔に要点を突いて話し、袋小路に迷い込むことはなかった」という。
すべて暗記していて誰の力も借りず受け答えし、「会談中、一切メモを受け取らず、決意が固いことを周囲に見せつけようとしていた」という。

一方、高血圧を患っていたルーズベルトは「見るからに調子が悪そうだった。
顔はロウのように黄色かった。
顧問団から多くのメモを受け取り、質問に答えるのを助けてもらっていた。
チャーチルともメモを交換していた」と振り返る。

3つの会談で米英ソによって戦後秩序が決められたにもかかわらず「ソ連はかなり邪魔だてしていた。
スターリンは、ソ連が対ドイツ戦で攻勢に転じたクルスクの戦い(1943年)など、ドイツに関する軍事情報を一切米英に与えなかった。
猜疑(さいぎ)心が強いスターリンは全員を敵とみなしていた。冷戦は大戦中からすでに始まっていた」と語った。

この会談以後の戦後体制をしばしばヤルタ体制と呼び、この会談以降、アメリカを中心とする資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が開始されたと言われている。

いかがだろうか。

今日のニュースで分かること。

ソ連はヤルタ密約を根拠に当時有効だった日ソ中立条約を破棄し、満州(中国東北部)や北方四島に侵攻し占領。
後継国家のロシアも北方領土の領有権を主張してきた。

一方、米国では53年に就任した共和党のアイゼンハワー大統領が年頭教書演説で、「あらゆる秘密協定を破棄する」と宣言して問題が表面化。
56年には、アイゼンハワー政権が「ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米政府の公式文書でなく無効」との国務省声明を発表し、ソ連の領土占有に法的根拠がないとの立場を鮮明にした。

一方、当事国の一つである英国は立場を明らかにしてこなかったが、チャーチル首相が41年8月、ルーズベルト大統領と領土不拡大の原則をうたう大西洋憲章に署名している。
今回の電報を通じ、密約が大西洋憲章に反するとの英政府の46年当時からの認識が示された形だ。

予定されている「日露首脳会談」でどのような進展があるのかは解らないが、歴史の事実を突きつけて交渉をして欲しいと願うばかりだ。
2016.12.01(Thu):歴史再考
こんばんは。

今夜は我が郷里の誇りである「藍染」の話。

徳島の藍染


藍染めの青い色は、「JAPAN BLUE」として世界に知られるほど深く鮮やかな日本を代表する色です。
馴染みがあるものとして、サッカー日本代表のユニフォームを「ジャパンブルー」と呼んでいますが、これも「藍色」を表現しているといわれています。

徳島は、この藍染めの元となる藍染料「蒅(すくも)」づくりの本場として、現在もその伝統が引き継がれ、徳島でつくられた蒅(すくも)を阿波藍と呼びます。

では、藍染めの一番の魅力とはいったい何なのでしょうか。
それは、やはり色そのものにあり、瓶(かめ)を覗いたときのように薄い色である「甕覗き」(かめのぞき)から始まって、「薄藍」(うすあい)、「浅葱色」(あさぎいろ)、「縹色」(はなだいろ)、「藍色」(あいいろ)、「勝色」(かちいろ)、「留紺」(とめこん)など、藍の色を表す様々な名称のとおり、多様な色彩美が染め出されることにあります。

阿波藍のはじまり

阿波藍の起源は平安時代、徳島の山岳地帯で阿波忌部(いんべ)氏が織った荒妙(あらたえ)という布を染めるために、栽培が始まったと伝えられています。
最古の資料は『見性寺記録』というもので、その中には宝治元年(1247年)に藍住町の見性寺という寺を開基した翠桂(すいけい)和尚が、そのころ寺のあった美馬郡岩倉(現在の美馬市脇町)で藍を栽培して衣を染めたと記されています。
その後、藍づくりは吉野川の下流域に広がっていきました。
『兵庫北関入船納帳』には、文安2年(1445年)に大量の葉藍が阿波から兵庫の港に荷揚げされたと記録が残っています。

戦国時代の藍づくり

戦国時代には、藍の色の1つである「勝色(かちいろ)」が、勝利につながる呼び名という縁起のよさから、武士のよろい下を藍で染める需要が高まり、ここから藍の生産が本格的に行われるようになったといわれています。
そして、それまでは、葉藍を水につけて染め液をつくる沈殿藍で藍染めを行っていましたが、天文18年(1549年)に三好義賢(よしたか)が上方から青屋(あおや)四郎兵衛を呼び寄せ、すくも(藍の葉を発酵させて染料にしたもの)を使った染めの技術とすくもの製法が伝わり、三好氏の城下勝瑞では、すくもづくりが本格的に行われるようになりました。

江戸時代に隆盛を極める

天正13年(1585年)、蜂須賀家政公が藩主となってからは、徳島藩では藍の生産を保護、奨励しましたので、いよいよ藍づくりは隆盛を極めたのでした。
徳島の藍は、その品質の高さからも別格扱いとされ、阿波の藍を「本藍」、他の地方の藍を「地藍」と区別されたほどでした。藍づくりを全面的にバックアップした蜂須賀家の力は大きく、一説には蜂須賀公が播州から入国した際に藍を持ってきたと伝えられています。
そして、徳島藩は、藍師や藍商から取り立てる租税で藩の財政を確立し、“阿波25万石、藍50万石”とまでいわれるほどになりました。
元禄時代には、全国的に木綿が多く生産され、それにともなって阿波藍も大量に生産されるようになり、その作付け面積は、寛政2年(1790年)に6,500町歩(ちょうぶ)もあったという記録が残っています。 ※ 1町歩=約3,000坪

藍の効用

藍には抗菌作用、防虫、防腐、防臭、保温、保湿、紫外線遮蔽など、さまざなまな効用があります。
また、化学薬品を一切使用していない藍染めは、赤ちゃんの産着としても使用でき、小さな子どものアトピー性皮膚炎の予防・緩和にも効果があるといわれています。

「JAPAN BLUE」とは誰が言った?

阿波をはじめ日本の藍が染め出す深みのある青を「ジャパンブルー」と最初に呼んだのは、明治8年(1875年)に来日したイギリスの化学者アトキンソンといわれています。
アトキンソン当時の日本人の着物を見て「ジャパン・ブルー」と呼び賞賛したほか、明治23年(1890年)には来日した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も「この国日本は神秘なブルーに満ちた国」と絶賛しています。

徳島の歴史を語るとき、藍を除いては語れません。では、なぜ徳島で藍の栽培が盛んになったのでしょうか。
徳島県の吉野川流域で藍づくりが盛んになったのには理由があります。それが「吉野川」です。
県内を東西に流れる清流「吉野川」は、その昔は、台風が来るたびに洪水を繰り返す「暴れ川」でしたが、その氾濫によって流域には肥沃な土が運ばれ、藍作を可能にしたのです。
また、洪水は毎年8月頃に来るのですが、藍は洪水の襲来する前の7月に収穫することができる作物であったことも、藍が栄えた大きな要因の1つでした。
洪水地帯で育った藍は粉にし、乾燥させ発酵させた後で、自然に固まった“すくも”という藍染めの染料となります。
この“すくも”は、吉野川の水運によって、江戸や大阪、名古屋などへ出荷されました。
うだつで有名な脇町などは、藍問屋の蔵が建ち並び、阿波藍の集散地として繁栄したのです。

うだつの町並み(脇町)
うだつの町並み(脇町)

そして現在、全国で使われる“すくも”のほとんどは徳島で作られており、まさに徳島は「藍のふるさと」と言えます。


2016.11.29(Tue):歴史再考
こんばんは。
今朝の寒いこと。冬なので寒くて当たり前なんだけど、できるなら穏やかに寒くなって欲しい(笑)
急激な温度変化に身体がね~~ですよ。

寒いけど、想像しただけで懐が暖かくなるロマンのある話です。

「埋蔵金」・・・なんてロマンを感じる響きだろうか。
どこの誰かは知らないけれど、かつての栄華の名残りである「金」、「銀」、「財宝」、「貨幣」などが地中深く埋められており、それが数10年、数100年も経って発見され、掘り返される。

この日本には全国各地に数1000件もの『埋蔵金伝説』が残されており、その総額は、現在の価値に直すと200兆円とも、500兆円とも推計されているんですよ。
実際、1963年には、東京中央区新川のビル建設現場土から、天保小判1900枚、二朱金約8万枚(現在の価値に直すと5?6億円)が発見されたり、2002年には、富山県小矢部市の豪農の農家から、時価4000万円ともいわれる小判が出現したことがあります。

数ある埋蔵金伝説の中でも、『日本の三大埋蔵金伝説』とも言われているのが、「徳川幕府埋蔵金」、「豊臣秀吉の黄金」、「結城家17代晴朝の黄金」だと言われています。

徳川幕府埋蔵金

埋蔵金伝説では知名度では群を抜いて。TVで「発掘番組」が作られた事もあります。
幕末の時代に、開国を迫られた徳川幕府は日本の金銀、貨幣が外国の手に渡るのを恐れて、当時の大老であった井伊直弼(いい・なおすけ)の命により、群馬県赤城村の山中に幕府の「御用金400万両」以上を埋めた、というものです。

徳川幕府がイザとなったときの軍資金確保を図ったものとされ、幕末に大量の物資が移送されたという記録もあり、なかなかの「信憑性」もありそうですが、その埋蔵金の埋められている場所としては、赤城山山麓という説や、旧沼田街道(現在の国道120号線沿い)、日光東照宮、という説など諸説があります。

また、童謡「かごめかごめ」の歌詞に、徳川埋蔵金の謎を解くカギがあるという説もあるそうです。

豊臣秀吉の黄金

時代は1600年より以前の1593年ごろに、病の床について、死を覚悟した豊臣秀吉が配下の勘定奉行・幡野三郎光照に命じ、豊臣家の家財である天正長大判4億5000万両、金塊3万貫を兵庫県の多田銀山の中に埋めた、というものです。

天正長大判金


天正長大判は現在では一枚5000万円以上の価値があるといわれており、金塊3万貫というのは金量にして100トン以上。
もう計算が嫌になるくらいの金額になります(^_^;)
埋蔵金のスケールという点では、国内でも、海外でも「代表的な埋蔵金伝説」と言われています。

結城家17代・晴朝の黄金

下総国(現在の茨城県)の戦国武将であった結城家は、かつて奥州藤原氏を滅ぼした戦功によってその黄金の多くを手にし、それを代々、家宝として蓄えてきました。
それゆえに、その膨大な資財は徳川幕府に狙いをつけられるところとなりました。
それに気づいた結城家17代の結城晴朝は、黄金・財宝の秘匿を画策し、現在の茨城県結城市?南河内町にあたる領地内に埋蔵金として隠した、というものです。
その埋蔵量は金の延べ板5万本で約375トン、現在価値で約5000億円以上にのぼるといわれています。

徳川家康をはじめ、大岡越前守も埋蔵金探しが行なったという話しが伝わっており、結城家初代・朝光公が建立した金光寺の山門には謎の3首の和歌が掘られており、埋蔵金のありかを示しているという説もあります。(残念なことに3種の和歌の真ん中の和歌は、心ない人によって削り取られてしまっています)

「埋蔵金なんて、自分には縁のない話」と思っている、あなた・・・その床下深くにお宝が眠っているかもですよ。
2016.11.15(Tue):歴史再考
こんばんは。

第二次世界大戦(太平洋戦争)が終わって70年を超えたにも関わらず、日本だけが現代においても戦時中のあらぬうわさ話を蒸し返されて面白くない。
敗戦して、日本は戦後補償を完璧なまでに行っている事実をしらない世界の人は多い。
これは、これまで日本側が「金持ち喧嘩せず」で外交をやってきた大きなつけだろう。

歴史は勝者によって書き換えられるとは言うが、年々旧日本軍が惨殺したとされる人数が増えてくるのも不思議だ。

そもそも、大虐殺とは何かが問題である。

広辞苑には「惨たらしい手段で殺すこと」と書かれている。
国連が1948年に議決したジェノサイド条約(通称)では、「集団虐殺罪とは、国民的、人種的、民族的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する目的をもって次の行為を行うものをいう。

(1)集団の構成員を殺害すること
(2)集団殺害の共同謀議
(3)集団殺害の直接かつ公然の教唆
(4)集団殺害の未遂(など)


この定義に当てはまる第2次世界大戦中の事象は、先に挙げたナチスによる600万人ホロコーストであり、米国の無差別都市爆撃・原爆投下による40万人殺戮、米英のドレスデン爆撃による15万人死傷、ならびにソ連軍がポーランド将兵4400人を鏖殺したカチンの森事件などであろう。

その他の大量殺人となれば、毛沢東の大躍進時の2200万人殺害・餓死、文化大革命時の2000万人殺害、ソ連革命時の2000万人粛清、カンボジアのポルポト政権時の200万人殺害(以上、『正論』2016年4月号、その他)などだ。

1989年に起きた天安門事件では学生らの民主化要求を人民解放軍が戦車で轢き殺すなどの武力弾圧を行い、解禁された米国の秘密文書によると死傷者4万人以上、うち死者は1万454人(『WiLL』2016年7月)とされる。

中国が必要に語る「南京大虐殺」とは、日本の頭を抑えるのに有効な手段だと思っているフシがある。
だが、真実は必ず出てくる。

南京事件に先立つ4か月余前、北京東方の親日政権があった通州で、日本人居留区の385人(民間人)が居留区を警備していた中国保安隊と暴民に突如襲われ、掠奪・暴行されたうえに婦女子を含む223人が惨殺される事件(通州事件)が起きた。

中国人に嫁した日本人女性が現場の近くにいて一部始終を目撃していた(藤岡信勝編著『通州事件?目撃者の証言』)。

本人は日本人が惨殺される状況を見るに忍び難く、声を出そう、助けに行こうと葛藤するが、夫に日本語を喋るな、隠れているようにと厳命され、状況を見届ける以外になかったと悔やむ。
その証言は現場にいたものしか語れない、また日本人ではあり得ない惨たらしさに満ちている。

戦闘行為に関わる兵士などではなく、一般市民の殺戮は文句なしに虐殺と言えるだろう。
他方で、捕虜の資格を喪失した便衣兵や反乱した捕虜などへの対処で起きる殺傷は、戦闘行為の一環とみるべきであり、虐殺とは言い難い。

朝日新聞が広めた南京大虐殺

はじまりは、朝日新聞の本多記者が「戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側の視点から明らかにする」として書いた、本多勝一『中国の旅』だ。
朝日新聞の本多記者が「戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側の視点から明らかにする」(同上)という訪中目的で入国を許され、1971年6月から7月にかけ取材する。
そのルポルタージュが帰国約1か月後から4か月間にわたって朝日新聞に連載され、大きな反響を呼ぶ。

問題なのは、事件に関わった日本人関係者が異議申し立てをしても、本多氏は「中国側の視点」での聞き書きであり、相手が話したことを忠実に書いただけであるとして、ごく一部の訂正を除き、事実の確認に努力しなかった事にある。
本多氏は新聞だけでなく、「朝日ジャーナル」や「週刊朝日」でも連載し、写真の一部は「アサヒグラフ」でも発表する。

これらのルポは単行本『中国の旅』に纏められ、翌年に出版される。朝日新聞社がいかに全力投球して南京事件を「南京大虐殺」に作り上げていったかが分かる。

下調べをして疑問点や問題点を見つけて、現地で確認するのではなく、真偽を問わずにただ至る所で虐殺があったという中国の主張は、東京裁判による自虐史観に取りつかれた日本人学者たちを勢いづけることになる。

中国にとっては日本のクオリティ紙からお墨つきをもらった形になったのだ。
本多氏がジャーナリストであるならば、戦時中は語られることもなく、東京裁判で突然語られ始めた南京事案については大きな疑問がもたれていたわけで、中国の言い分をただ聞き書きして新聞紙上に発表するだけでは無責任の誹りを免れない。
本田氏が中国をルポした1970年代初めは、上記軍人や記者などもまだ多くが生存し、記憶もしっかりしていたに違いない(阿羅健一氏は80年代中期に、軍人や記者、外交官など48人の証言集を上梓している)。 のだ。

1970年代初期のルポ、そして直後に加筆して出版された単行本『中国の旅』が先導役となり、その後大虐殺を主張する本が次々に出版され、中国の主張を後押しすることになる。

当時は日本の新聞社として朝日新聞しか中国に駐在を許されていなかった。
そうした中で、中国側の視点から日本軍の行動を明らかにすることは中国にとっては願ってもない「大虐殺」流布の好機であり、「飛んで火にいる夏の虫」に、中国共産党が国家ぐるみで最大限の便宜を図ったことは言うまでもない。

1980年代に入ると中国人民政治協商会議江蘇省南京市委員会文史資料研究委員会編の『史料選輯(侵華日軍南京大屠殺史料専輯)第四輯』が出版され、日本では(南京市文史資料研究会)『証言・南京大虐殺』として翻訳され、続いて、大虐殺関連の写真集『侵華日軍南京大屠殺照片集』が中国で出版され、日本では朝日新聞社が『南京への道』(本多著)や『南京大虐殺の現場へ』(本多・洞富雄・藤原彰共著)を相次いで上梓する。

このように大虐殺に関する書の出版が続き、また南京戦直後に出版されたティンパーリ編『外国人の見た日本軍の暴行』も復刻され、1990年代中期以降の中国系米国人アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』へとつながり、世界的ベストセラーとなって日本を窮地に追い込んできたわけだ。

中国は勝ち誇ったかのように、日本に対して「正しい歴史認識」を迫り、大虐殺の記念館が中国のあちこちに建てられていく。

本多氏は「一連の南京大虐殺キャンペーンが中国共産党に評価され、2006年9月24日、南京大屠殺記念館(南京市)から『特別貢献賞』を授与されたのだ。

平成28年8月31日付産経新聞は驚くべき事実をスクープした。その報道概略は以下の通りである。

中国は2008年にドイツなどとの合作で、赤十字職員と偽って南京に入り、中国市民を殺害する日本兵を撮影するホッグ氏を主人公にした映画を製作した。
だが、映画の原作となった本を書いた英タイムズ紙記者ジェームズ・マクマナス氏は、ホッグ氏の中国入りは南京事件が起きたとされる1937年12月ではなく翌38年2月で、しかも上海に入り、南京には行っていないということで、「映画は脚色され、事実ではない」と証言している。

産経新聞は、ホッグ氏が務めたとされる新聞に署名記事がないこと、また通信社には署名記事があるが紀行文などで、「日本軍の虐殺行為を暴いた署名記事は見つからなかった」ことを確認したと報じている。

中国の国家主席がエリザベス英国女王主催の公式の席上で語った「日本の残虐行為を暴いた記事」はあり得ない、全くのでっち上げであったということである。
赤十字職員と偽って南京に入り、中国市民を殺害する日本兵を撮影するホッグ氏を主人公にした映画は、何としても日本の犯罪にしたい意図が先にあって創出された映画だったことが明白になったのだ。

朝日新聞の立ち位置からくることでもあろうが、検証を伴わない報道はジャーナリズムとは言えないだろうし、記者はジャーナリスト意識を欠落したものと言えないだろうか。

今や、国家を代表する習近平主席の発言にさえ疑問が呈されてきた。
いよいよ「南京大虐殺」という欺瞞のベールが剥がされ、「存在しなかった『大虐殺』」が白日の下に照らし出され始めたということではないだろうか。

ごく当たり前に計算しても、日本軍がいた期間から推定すると毎日500人殺してそれを埋めて次の日また500人を数ヶ月続けないと規定の人数にならない。
中国人が日本の民間人を大量虐殺した通州事件のことを「すりかえた」と考えてもいいだろう。

最近は、民進・共産がネタを提供し、朝日・毎日・NHKが煽り。民進・共産が国会で騒ぐお決まりのパターンになっている。
騙される日本国民の数は限りなく0になってきてるけど、やってるメディア、議員は気がつかないふりをしたままだ。


南京市の雨花台公園に在る、毛沢東直筆の南京事件の顛末 国民党が支那共産党の党員30万人を虐殺した。と書かれた碑文と整合性はどうなってるのか聞いてみたいものだ(笑)

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石碑には毛沢東の揮毫で「国民党政府在雨花台曽経屠殺了三十万共産党烈士」書かれているのです。
2016.11.06(Sun):歴史再考
こんにちは。
数あるブログの中から、ここに来てくださった皆様に感謝します。

今日の徳島県北部は曇り時々小雨が降って寒いです。
通年ならば紅葉している近くの山が今年はまだ紅葉してないのがなんとなく違和感があります(^_^;)

知ってるようで、なるほどってなという事実をアップします。

中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会は5日、中国、香港に強硬な介入姿勢か 議員宣誓の条文、解釈は基本法と同等と解釈されると認識を示した。

アジアの経済と物流の中心地である香港、そして「カジノの中心地」と呼ばれるマカオはそれぞれ別の国と捉えられてしまうこともありますが、実際には1つの中国に属している「特別行政区」というのがその正式な分類・名称です。
一つの国でありながら別々の制度が存在するという不思議の世界が存在します。

中華人民共和国(中国)の特別行政区の一つである香港は、中国南部にある華南の珠江デルタに位置し、大小の島々で構成されている都市です。
香港
狭い領土には人口700万人が暮らしており、多くの住民は香港名物とも言える細長い高層ビル「ペンシルビル」で生活を送っています。
また、香港は、ロンドン・ニューヨークと並ぶ世界三大金融センターの一つと評されており、古くからアジアにおける金融・流通の要所とされてきました。
しかし、香港は昔から現在にかけても、共産中国に対する不信感が根強く残っている。
不信感の要因として、イギリス領だったために共産党政権の影響を受けてこなかったこと、国共内戦や文化大革命、共産主義政策から逃れてきた人々と共に発展した世界有数の自由貿易港であること、天安門事件の存在などがあります。
香港は中国の一部でありながら、お互いを往来する際にはパスポートを提示する必要があり、香港と中国本土の間には事実上の国境線と出入国管理所が存在する。
香港と中国本土
同じことがマカオにも言え、それぞれの地域を行き来するときにはパスポートを持って出入国検査場を通る必要があります。
中国と香港、マカオでは税制も異なるため当然、税関もある。
中国本土人が観光などで香港に入る場合はパスポートと通行証(ビザのようなもの)が必要で、通行証は政府に申請して審査に通れば発行してもらえる。

双方ともWTO(世界貿易機関)には加盟するものの、中国領の関税領域としての位置づけとなっているが、中国は大使が駐在する「大使館」が置ける(大使館の名称が使える)のに対して、香港とマカオが置けるのは「領事館(総領事館)」となります。

また、マカオはカジノなどの娯楽の場として発展をとげ、「世界のカジノシティ」としてラスベガスをしのぐ規模を誇るに至っています。
マカオのカジノ
紆余曲折を経て、香港は1997年7月1日に、マカオはその2年後の1999年12月20日に中国に返還されました。
このとき、中国は両行政区に対して50年間の自治を保障したのですが、事実この約束は反故されたといってもいいでしょう。

基本法は「一国二制度」に基づく中国の特別行政区である香港の憲法に当たり、立法会議員は就任宣誓で同法を擁護し、「中華人民共和国香港特別行政区」に忠誠を尽くさなければならないと定めている。
しかし、これに従わなかった場合の規定はないために、香港への強硬な介入姿勢を示す可能性が高まってきている。

2014年に行政長官選挙の民主化を求めた道路占拠運動(雨傘運動)での若者の民主化要求を再燃させる可能性を中国当局が危惧しているからだろうと言われている。

事実、香港の民主主義は英国統治時代よりも後退していると今更ながら感じている香港の人たちにとって、本国の介入は驚異になっていると言える。